エゴ(「ニュー・アース」エックハルト・トール②)
ふとあらわになるエゴ(自我)。
割と毎日が順調な時は、気が付かないかもしれない。どちらかというとポジティブでない感情が生じた時や、迷いがあるとき、すごく鮮明に顕在化する。(と感じます、私の場合)
でも、それが「エゴ」だとわかるから、対処の仕様がある。
前の日記にも書いたように、エゴとは「本当のわたし」という本質の部分ではないから。
でもエゴの影響力ってすごい。こうして頭でわかってはいても、エゴによって着飾ろうとする自分がいる。これは思考の癖だし、なかなか抜け出せないよねー。
たとえば、最近の悩み(迷い)の中で大事なことに気が付いた。
私は現在働いている穂高養生園が大好きで、そこにいるおかげで自分は心地よく在れるのだ、と思っていた。
それまでも「心地よく在れる場所」をずっと追い求めてきたし、これからも探そうとしていた。色々なところに行って、どこがしっくりくるのかなぁーと探ってきた。
逆に、実家に帰ったら「自分らしく振舞えない」「窮屈だ」と思い込んでいた。そう、”思い込んで”。だから、これまでもずっと、お互いの価値観の違いで口論になるのを恐れて、「自分の人生は自分で決める!」と銘打って、家族と真剣に腹を割って話すことから逃げていた。
でも、「本当のわたし」はどこにいても変わらないはずで、変化してるのは表層の、幻想のエゴの部分。
わたしは、環境にエゴを乗っけていたのだ。
「養生園のまきまき」はわたしが執着している姿…。
私は養生園を手放すことがとても怖かった。あの静謐な雰囲気の中、大好きな仲間たちと、やりたいことに全力で打ち込める環境で、安心して働ける、大切な居場所。こんなとこない!って思ってるから。
だれだって、自分が心地よいと思える環境を見つけたいし、いつまでもいたいと思うだろうし、全っ然、悪いことではない。だからみんな転職したり移住したりするもんね。
でも、冬の終わり、両親の身体の不調をきっかけに、リアルな現実に直面せざるを得なくなると同時に、「本当のわたし」とは何か?改めて内観することとなった。
ほんとうにどうしようもないくらい考えた。今までこんなに迷ったことあったっけ??てくらい。←つまり、理性で考えすぎた。感性はぶっとんでいた。あまりにもわかんないから、その解決策を探して会う人会う人に相談し、「ニュー・アース」を読み返し、スピリチュアリストの話聞いたりヨーガ哲学の文献読んだりして、見失っている感性を呼び起こそうとした。(前の日記参照)
もう疲れた~💦考えたくない~!の、究極・限界あたりに来たとき、なにかが、初めて下りてきた。
環境が私を心地よくする、のではなく、私が私自身を心地よくすべきだ、と。
環境に依存しているうちは、それはエゴにすぎない、だって〇〇〇があることが条件になってしまうから。〇〇〇に自分を重ねて、同一視しているから。
わたしはこれまで、自分の思考で自分をしばっていたことに気が付いた。
もちろん外部に心地よさを感じることがダメなんじゃない。それら(具体的には環境や役割など)と自分を同一視して心地よくいられるうちはいいけれど、そうはいかなくなった時…! 私が私自身を心地よくできるのならば、どこにいたって何してたって、自分らしく、安心していられる。他力本願ではなく、自力本願だということ。
(これってまさにプルシャ(真我)の発見!すごく、腑に落ちた…※プルシャについては以下参照 https://flowandgrow.theblog.me/posts/12534734)
これは気が付くのと気が付いていないのでは、えらい違うと思う。
たとえこのまま養生園にいたとしても、まったく新たな気持ちでその場にいる自分を観ることが出来るから。心地よく生きることが人生テーマだなんて、今までよく言えたもんだ…(笑)
そして、ちゃんと家族と向き合った。
自分の素直な気持ちを話したら、これまでずーーーっとあった、もやもやしたもの、自分の中の「後ろめたい気持ち」「罪悪感」が、消えた!
私が勝手にストーリーを創りあげて逃げていたせいなんやなぁ。ごめんね、、、と反省しました。
もちろん向こうもスーパーエゴエゴな部分をぶつけてくるから、いつも全部まるくおさめて受け止めてあげられないけれど、自分から逃げない勇気を出せたことに、一歩前に前進したなぁ、と実感しました。
人生、終わることない、気付きの連続だなぁ~。
手放して、手放して、新たな境地にひとつひとつ、進んでいきたいです。
それにしても、「ニュー・アース」、言い得て妙、すぎる!!!
おそらく私が今までで読んだ中で一番の教科書。
たくさんの人に読んでもらいたいな~~~。
毎回毎回、立ち止まった時に読んでは、新たな形で発見があります。
必ずそれぞれの、それぞれのタイミング、ステージにぴったんこの「気付き」を与えてくれるはず。
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